10月、社員のSSさんの実家がある仙台に向かった。SSさんのお父さんと以前からFacebookでやりとりしており、いつかお会いしたいと思っていた。想像通り、含蓄深い方だった。書道やカメラ、最近はサックスなど多趣味で、開業医としてクリニックの図面をご自身で書かれるほど拘って作られていた。お母さんも茶道を長年されており、おもてなしたっぷりで、三陸沖のマグロ、カニ、うに、牡蠣などの海産物をたらふく頂いた。お父さんは車で仙台周辺を案内して下さった。SSさんのルーツを知ることが出来て嬉しかった。そして、家族ぐるみのお付き合いをさせて頂けることに感謝、深謝であった。
「伊達政宗の時代から都市として発展した仙台」と「復興中の仙台」という変わり続ける仙台を目にして、どの地に生きるものにも学ぶことがあると思った。今や100万人都市の仙台。仙台城址に行くと伊達政宗像があり、その向うには仙台市が望めた。西と北の陸前丘陵、東部に広がる仙台平野や仙台湾、南を阿武隈川に囲まれ、山・川・海・平野に恵まれていることは一目瞭然だった。
400年前に仙台藩初代藩主の伊達政宗が開始した仙台の都市計画。現代まで発展し続けたのは恵まれた環境要因もあるだろう。宮城県民の約半数が仙台に住み、仙台一極集中になりやすいのも納得だ。また、日本三景の一つである松島や塩釜神社、定義山などにも行き、河原では芋煮会を何度も見て、自然環境・芸能・食文化など、仙台の魅力を感じた。
しかし、その仙台も、東日本大震災によって甚大な被害を受けた。私たちは田園風景を横目に、車で閖上港に向かった。大都市だが、米は仙台の主力農産物であり、ササニシキやひとめぼれなどのブランド米を産する土地柄だ。政宗が後に貞山と呼ばれたことからつけられた貞山運河は今もあり、北上川水系を穀倉地帯としてきた礎となっていた。そして、港まであと3kmほどになってきた途端、半壊の建物や雑草の茂った原っぱが現れてきた。車を降りて、追悼碑の前に立つと、大きな石にぎっしりとお亡くなりになられた方の名前と年齢が刻まれ、子どもや高齢者の名前が目立った。市内の全住宅約50万戸のうち10万戸以上が全半壊するという被害を受け、仙台市内の死者数は約850人にものぼったのだ。そして、沿岸の松林の多くは折れ曲がり、津波の爪痕は痛々しいものだった。SSさんのおじいさんたちも海から近いところに住んでいたものの何とか無事であったという。
震災のことを思い、重い気持ちになりながら、閖上港朝市に行くと、何やらお祭り騒ぎで活気があった。魚介類のバーベキューの匂いが漂い、競りが行われ、地元の農産物や魚介類を買う人だかりがあった。地震・津波で文字通り泥沼になった地で、着々と復興は始まっていた。朝市の周りの空地には工事計画の看板が多く、張り紙を見ると工事費約50億円と書かれているものもあった。建設業界はバブルという側面もあるが、今回の震災復興は一つの仙台の発展のエンジンとなればいい。
「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」と人生を振り返った政宗だったら、どのような復興をしていくだろうか。地域だけでなく、医療も同じく、過去の人々が築いてきたものを大切にしつつ、社会の変化に対して、これからをどのように築いていくのかが重要だ。仙台も政宗の時代から400年で、明治時代は明治政府の中央集権体制における東北地方の拠点都市として発展、戦後は東北新幹線開通や政令指定都市化による発展、そして今回の震災復興。自分たちの力以上のことで訪れる大きな社会変化に逃げるのではなく、健診弱者、規制改革、看取難民、新卒訪問看護師不足といった問題や変化を、いかに機会として捉えるのかが重要だ。まずは目の前の問題や変化を、機会として捉えよう。
川添高志
※「写真提供:仙台市観光交流課」